言語はなぜ哲学の問題になるのか パート B 読解
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目次
パート B 意味の全盛期
6章 「ノーム・チョムスキーの生得説」
7章 「バートランド・ラッセルの直知」
8章 「ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの分節化」
9章 「A・J・エイヤーの検証」
10章 「ノーマン・マルコムの夢」
パート B 意味の全盛期
6章 「ノーム・チョムスキーの生得説」
二世紀のジャンプ
哲学における二世紀間の活気に充ち緊張に飛んだ思索を飛び越える。観念の時代、17世紀を後にして、20世紀の前半、哲学が「意味」に没頭しているように見える時代へ
前章に引用したフレーゲの文章が、何が起きたのか -それもきわめて普遍的なかたちで何がおきたのか - を教えている 彼は意義(、公的な意味)、すなわち思考の蓄積を世代から世代へ伝えるものについて論じる。
記号に結びつけられた観念(つまり、孤立したエゴ、自我、自己と世界を結びつけるプライベートな媒介者(精神的言説))はまったく興味の対象とはならない。
この17世紀の世界から最近の世界への移行に際して、わざと年代的順序を逆にして始めるのが得策である。
1928 - 2008
私は、この(生得観念をめぐり)論争が17世紀の思想の中でどのような役割を果たし、そしてチョムスキーがそれをどのような形で再び用いようとうしたかについて語ろうとう思う。
1960年においても1690年においても、この論争に加わった人々は、その双方の側とも莫大なる情熱を傾注したのであるが、これをわきで見ているものにとっては、正確な論点が何であるのか、はっきりしない
「生得観念」とおいう語句は一つの象徴的な旗印であって、それはただ、もっとずっと重要な事柄について争っている両陣営の、結集点を示しているにすぎないように思われる。
両陣営とは
白い石板か、大理石の塊か
我々の間の相違は重要なる事柄に関わっている。問題は、精神が、アリストテレスやロックがいうように、それ自体としては全く空虚なもの、いまだ何も書かれていない石板(タブラ・ラサ)であって、そこに書かれているものはすべて感覚と経験とに由来するものであるのか、 あるいは反対に、私(ライプニッツ)がプラトンとともに信じるように、精神はその始めからいくつかの概念や理論に関する原理を内に有しており、外的な事物はたんにそれが表にあらわれる機会を与えるのみであるのか、ということである。 合理主義者と経験主義者
子供がどのようにして話すことを学ぶか、という問いから始める
その答えを得るために、言葉を発しはじめた子供を研究してみればよいのではないか
これによく似た問いが、哲学に繰り返しゆさぶりをかけてきたのである。
相反する答えは、人間の本性に関する根本的に異なった見方を表し、合理主義者と経験主義者の深い相違を特徴づける、と考えられている。
言語取得に関する二つのメタファー
言語取得に関する最も永続的なモデルは、二つの古いメタファーによって学ぶことができる
「白い石板」(「白い蝋板」)
蝋板はなにも知らず、経験がそれに書き込むのを受動的に待っている
「大理石の塊」
子供には大理石と同様に石脈がついているので、そこからある特定の形だけを経験によって切り出すことができる
(子供は概念に関する形式を生得的にたずさえて生まれてくる)
「白い石板」説
あらゆる知識は経験によって獲得される
ここでいう知識は、なにが真であるかという知識だけではなく、どのように事を為すかという知識も含み、分類したり話したりする能力も含んでいる、とこの説は言う
もろもろの経験はお互いに異なっている
母親がそばにいることは、彼女がいないこととは異なって感じられる
飢えていることは、腹が充ち足りていることとは異なって感じられる
こうした違いを知って、母親や飢えの観念を形成する
言葉の学習における三つの要件
それゆえに、言葉の学習における三つの要件は次のようになる
経験によって与えられる事物の特性に注目する
これらの特性が、年長者の発する音とどのように結び付いているかを知る
これらの特性に対応する音を、社会が次第点をつけるような仕方で発する
単語と文法
これらは必要な要件のうちの三つにすぎない
話すことを学習するということは、或る一つの特性の現前において一つの語を発することばかりではなく、さまざまな文を、さまざまな叙法によって発することを学ぶ、ということである
文法を学ぶことは単語を学ぶことと同様に重要である。
経験論者は、単語を学ぶことが言語学習のすべてである、と言っているのではない
それがまず最初の事柄である、と言っているのである
それは理論の出発点として妥当な主題である
抽象主義
抽象主義とは、心がすでに持っている概念や経験から概念の一部または全部を抽象化することによって概念を獲得するという理論である。たとえば、緑やその他の特性を伴う一連の経験から「緑」を抽象化することができる。また、たとえば、「野菜」のような一般的な概念を、その実例(ニンジン、ブロッコリー、タマネギなど)のすでに持っている概念から抽象化することができる。この見解は、ジョージ・バークリーとピーター・ギーチによって批判された。 この出発点の一部は ピーター・ギーチ が「抽象主義」( Abstractionism )と呼んだものである ピーター・ギーチ "Mental Acts: Their Content and Their Objects" 概念は、直接的経験において与えられているさまざまな諸特性から、注意力によってある一つの特性を選び出し - つまり、抽出( abstracting it )し - 、同時に与えられている他の諸特性を無視する - つまり、捨象( abstracting from them )する - という過程によって獲得される
キンギョソウのネクターと「傾向性」
経験論的な理論のうち、少なくともそのナイーブなものにおいてもう一つの部分をなすのは、子供は、その注意をある固有な特性にのみ向かわせるような、選択的な抽象の機構をもって生まれてきてはいない、という説である。
子供はただ、眼の前に実際に区別されている特性であれば何であれそれに注目する。
全く見知らない宇宙に投げ出された人間の「白い石板」は、我々に固有な意味で有用であるような分類づけを行わないであろう。
それはおそらく、最後に食事を与えられた4時間後に泣き叫ぶということはする。
しかし、それの生命を維持しているのが、大海の中で脈打っている菱形の物体から流れ出る、キンギョソウのネクターであったとすれば、それは母の観念をもたなかったことであろう。
https://gyazo.com/f9c9cd6d5834722eba244907ec5527a4
昆虫、おそらくミツバチを指している
それはおそらく母親の観念を持つという「傾向性」さえも、持つことはなかったであろう。ちょうど我々の子供が、そのオパール色をした給養物の姿に反応する「傾向性」を持つことがないのと同じように。
大理石の塊と「傾向性」
大理石の塊というアナロジーの方は、大理石が石脈をもつという事実に由来している。
子供はある種の特性を注目するようにあらかじめ性格づけられており、ある種の観念のみが経験によって子供の内に作られ得るのである。
子供は飢えたときに泣き叫ぶ傾向をもって生まれる。子供はまた、その生長の特定の段階において、母親、飢え、色、三角形、あるいは櫛型といった特殊な形までも見つけ出す、という傾向をもって生まれてきている。さらに後には、「右」その他の順序関係も生じる。
合理論者は、諸観念が生得的であると言うとき、これらを判別する能力があらゆる子供の精神において実際に現存している、と主張しているのではない
デカルトの言うところによれば「生得的」という言葉は、
デカルト "Notes Directed Against a Certain Programme"
「ある家族において寛大さが生まれつき( innate )であり、また別の家族においては、通風とか結石とかいった病気が生得的だ、という言い方と同じ意味で用いられているのである。
この場合、後者の家族に生まれてくる子供は、母親の胎内でこうした病気に罹っているというわけではなく、ただそれに罹りやすい「傾向性」とか「性向」とかをもって生まれてくるということから、そう言われるのである」
「自然の能力」
「傾向性とか性向」というこの語り口は、「白い石板」と「大理石の塊」との間で何が問題になっているのかを、多少ともわかりにくくする
われらが経験論者ロックはその『試論』の第一頁で、自分は、我々の知識がその「自然の能力」( natural faculties )から得られるということだけを示そうとするのだ、と述べている
『人間知性論』第2章「心に生得の理論的原理はない」(1節) 「もし私が、人々は[本性上]自然な機能を使うだけで、すこしも生得の印銘の助けを借りずに、人々の持ついっさいの真知に到達でき、そういった本源的な思念ないし原理がなくとも絶対確実性へ到着できることを明示しさえすれば、先入見に捕らわれない読者はじゅうぶん納得するだろう」
https://gyazo.com/ec8503d1cc666fe37dc4e1e7dea04153
どうしてそれが、合理論者の言うような、事物や母親や三角形へと分類する「自然の能力」であってはいけないのであろうか。
ロックは第1章の後の方(22節)で隠伏的な知性と明示化された知性について考察している。
「知性に対して隠伏的に刻印されている原理、ということで意味されているものは、次のもの以外には考えられない。すなわちそれは、精神が知覚し、同意する能力をもつということである」
「潜在的な知識」と「顕在的な知識」
「顕在的な(あからさまな)知識ではないが、潜在的な知識をもつと言われるなら(原理が知られる前に知性にあると言おうとする者はそう言わなかればならない)、知性へ潜在的に印銘された原理というのは、心がそうした命題を理解できて固く同意できるという意味でないかぎり、その意味を想念することはむずかしいだろう」
https://gyazo.com/46e93475f9bef9b3795be5e545028f31
「傾向性」(合理論者)と「能力」(経験論者)
論争者たちの一方が「傾向性」(合理論者、生得論者)と言い、もう一方が「(自然の)能力」(経験論者)と言って争っているのを見ると、我々にはそれらがすべて言葉の問題だと思われてくる
合理論者は、我々が生得的観念を有すると信じてはいるが、その彼らも子供が適切な経験を得る以前に、また正確な成熟の段階を達する以前に、或る観念の修得を示すことができると主張しているわけではない。
経験論者は、我々が人間にとって重要であるような事物の特性の現前によって、そこから観念を抽出する「自然の能力」をもっている、ということを否定しない。
ここには真の論争点はなにもないように見える。
けれども実際には大きな問題が争われていたのである。
二つの論点、知覚の哲学に関する問題、数学の哲学に関する問題
言語修得に関する純粋な理論のレベルにとどまっているかぎり、生得論者(合理論者)と経験論者の対立はぼやけてしまうが、
哲学に対するそれの応用を考察するとき、対立はその重要性を取り戻すのである
end